เข้าสู่ระบบ深夜1時を回った本邸は、昼間とは別の建物のように静かだった。廊下を歩く組員の足音も途絶え、庭に面した障子の向こうからは、風に擦れる竹の葉の音だけが細く聞こえてくる。玲は自室の内鍵を掛け、念のため盗聴検知器を1周させてから、机上の書類を全て裏返した。凌臣の執務室から戻ってまだ30分も経っていない。大学で学生に笑っていた写真を手元へ置き、不機嫌になっていた凌臣の顔が浮かんだが、玲は息を吐いて思考から追い出した。
腕時計を外し、裏蓋に隠した薄型端末を取り出す。暗号通信機器は、玲の虹彩と指紋、時間ごとに変化する認証列を全て通さなければ起動しない。左手で8桁、右手で12桁を入力し、最後に端末を机上の遮蔽ケースへ収めると、黒い画面へ警察庁の閉鎖回線が立ち上がった。燈城会側の機器と接続したことは1度もなく、片方を押収されてももう片方へ辿れない。
画面には既に複数の人物が並んでいた。警察庁長官の納所允孝をはじめ、長官官房、組織犯罪対策部門、国際捜査、資金洗浄対策に関わる幹部たちが、それぞれ別の安全施設から接続している。玲はシャツの襟を整え、椅子へ座り直した。背筋を真っ直ぐ伸ばし、表情から私情を消す。そこにいるのは燈城会の愛犬でも、学生へ笑う大学講師でもなかった。
「警視、靫負玲。定時報告を開始します」
自分の本名を口にしても、声は少しも揺れなかった。画面の隅に録音不可を示す表示が点灯し、幹部の1人が頷く。玲は資料を開かない。机上には白紙のメモ帳とペンしか置かれていなかった。
「燈城会が現在把握している海外送金ルートは7本です。うち3本は東南アジア経由、2本は欧州系の投資会社を挟み、残る2本が国内法人へ還流しています。国内へ戻る2本について、法務省関連法人へ接続する可能性があります」
国際捜査担当の幹部が眉を寄せた。
「可能性というのは、どの程度だ」
「現時点で直接証拠はありません。ただし、香港法人《ライデン・ストラテジック・ホールディングス》から2025年11月17日に送金された4億8200万円が、シンガポールの《オーレリア・アセット・マネジメント》を経由し、2025年11月21日に国内の《東亜政策研究振興機構》へ分割入金されています。金額は1億6000万円、1億2200万円、2億円です」
玲は視線を上げることなく答えた。質問した男が手元の資料を捲り、該当箇所を探す。その動きが止まるより先に、別の幹部が口を挟んだ。
「口座番号は」
「国内側が東都中央銀行霞ヶ関支店、普通、4817296。名義は一般財団法人東亜政策研究振興機構です。海外側は口座末尾4831と0927。全桁が必要なら申し上げます」
「いや、合っている」
回線越しに小さなどよめきが生じたが、玲には珍しいことではない。1度見た数字列はほぼそのまま残る。送金額、日付、会社名、口座番号、法人登記の変更日まで、頭の中では資料の位置と一緒に並んでいる。忘れようとしても簡単には消えないため、むしろ不要な記憶を意識的に遠ざける方が難しかった。
「東亜政策研究振興機構は法務省とどこまで近い?」
「直轄ではありません。表向きは刑事政策と更生支援に関する民間研究団体です。ただ、理事9人のうち3人が法務省OB、2人が現職国会議員の政策顧問と繋がっています。2026年2月から現在までに法務省主催の有識者会議へ4回参加しています」
「現職の名前は」
玲はそこで初めて僅かに間を置いた。知らないからではない。まだ裏付けの弱い情報を、公式報告の場で断定しないためだった。
「現時点では実名報告を控えます。接触記録はありますが、資金受領まで結びついていません。燈城会側も同じ人物を疑っているため、こちらが先に動けば潜入先へ捜査情報が漏れたと判断される危険があります」
「慎重だな」
「慎重でなければ4年も残れていません」
声には感情を乗せなかったが、数人が僅かに黙った。玲はその沈黙を気にせず、昨夜の料亭で拘束した襲撃者についても報告を続けた。偽造された身分証、軍用品メーカーのブーツ、時計の不自然な年代差、銃を握る者に特有の皮膚の硬化、削られた製造番号。目に入った順序までほぼそのまま再構築し、尋問で判明した内容と、自分が観察だけで得た推測を明確に分けて説明する。
「使用された拳銃はヘッケラー&コッホP30系統。国内への正規流通品ではありません。製造番号の研磨痕に、2024年6月に摘発された横浜港密輸事件の押収銃と近似する特徴があります。ただし現物を鑑定していないため断定はしません」
「写真だけでそこまで分かるのか」
「研磨方向と工具幅が似ています。完全一致かどうかは科捜研へ回さなければ分かりません」
別の幹部が「相変わらずだな」と低く漏らした。褒め言葉なのか呆れなのか、玲にはどちらでもよかった。必要なのは自分への評価ではなく、4年間潜り続けた結果を1つでも多く回収することだった。
報告はさらに40分続いた。送金会社の所在地、海外側の役員構成、偽装輸入に使用された船舶番号、昨年消えたペーパーカンパニーの登記変更履歴まで質問が飛ぶ。そのたび玲は「私が確認した範囲では」と前置きし、確定情報と推測を混ぜずに返した。大学では学生が置いていかれないよう説明を噛み砕くが、ここでは逆だった。必要な情報を最短で切り分け、余白を残さないことが求められる。
最後に玲は、椅子へ座ったまま僅かに顎を引いた。
「私からは以上です。燈城会側が把握している海外送金ルートは7本、そのうち法務省関連法人へ接続する可能性があるものが2本です。追加資料は分離経路で送信しますが、原本に触れられる時間が限定されているため、私の記憶から再構成した箇所も含まれます」
「精度は」
「数字列については問題ありません。文言の完全一致が必要な部分には、再構成と明記します」
納所が静かに頷いた。
「分かった。各部門は靫負警視の情報を基に照合を進めろ。ただし燈城会側へ動きを悟られるな。特に法務省関連については、接触部署を限定する」
幹部たちが順に了承し、回線を切っていく。1人減るたび、画面上の小窓が黒く閉じていった。玲は最後まで姿勢を崩さず、「お疲れさまでした」と同じ調子で頭を下げる。公式の場で玲が使う言葉は必ず「私」だった。それは自分の中へ引いた境界線でもある。
やがて画面には2人だけが残った。玲と納所允孝。接続終了の時刻を過ぎても、納所は回線を切ろうとしない。
玲は5秒待った。それでも何も言わない相手を見て、肩からふっと力を抜く。背凭れへ身体を預け、首元のボタンを1つ外した瞬間、警視として整えられていた顔から硬さが消えた。
「で、まだ何かあるんですか」
納所の眉尻が僅かに上がる。
「急に口が悪くなるな」
「もう公式会議じゃないんで。俺でいいでしょう」
「切り替えが早すぎると言っているんだ」
「そっちが残ってるからじゃないですか。用がないなら寝ますよ。俺、明日も朝から仕事なんで」
納所が堪えきれないように笑った。公式会議で玲しか知らない若手が見れば、何かの誤作動を疑うかもしれない。数分前まで「私から報告します」と隙なく話していた男が、今は椅子へ斜めに座り、面倒そうに前髪を掻き上げている。
玲にとって納所允孝は、警察庁長官であるより先に、幼少期から自分を知る男だった。両親を失ったあと、食事を用意し、学校行事へ顔を出し、進路を巡って喧嘩までした。実父と呼んだ記憶より、納所に叱られた記憶の方が鮮明なくらいだ。だから2人きりの閉鎖回線でまで、官僚の仮面を被る気にはなれなかった。
納所の笑いは長く続かなかった。画面越しに玲の顔をじっと見たあと、視線が首元から肩へ、さらに手首へ移る。怪我を探す癖だと玲は知っていた。幼い頃から変わらない。
「身体は」
「平気です」
「その答えは聞き飽きた」
「じゃあ質問変えてください」
「食事はしているか」
「してます」
「睡眠は」
玲は少し考えた。
「足りてはいませんけど、死ぬほどじゃないです」
「何時間だ」
「日によります。昨日は3時間ちょっと」
納所の眉間に皺が寄った。玲は先回りするように片手を上げる。
「大学の講義もあったんで仕方ないです。昼寝しましたし」
「20分を睡眠に数えるな」
「数えますよ。人間、20分でも結構回復するんで」
「お前は昔からそういうところだけ理屈を使う」
玲は笑った。口元だけではなく、目元まで柔らかくなる笑いだった。燈城会で4年間ほとんど見せていない、本来の靫負玲の表情に近い。だが納所の顔は緩まなかった。
少し間を置いて、低い声が届く。
「毎日なのか」
玲は何について聞かれているのか、説明されなくても分かった。凌臣との関係だった。4年間、右腕、組長補佐、愛人として傍へいる以上、避けて通れない部分でもある。玲は頬杖をつくように指先を顎へ当て、予定を確認する程度の軽さで答えた。
「毎日ですね。最低でも夜は」
納所の表情が目に見えて曇った。
「最低でも、というのは」
「朝に呼ばれることもありますし、昼間に時間が空けば呼ばれることもあります。回数は日によりますよ」
「玲」
「そんな顔しないでください。今さらでしょう」
「今さらで済ませる話か」
玲は少しだけ首を傾げた。本気で分からないというより、納所が何を言いたいか分かっていて、それでも重大なこととして受け取れない顔だった。潜入初期なら緊張もした。凌臣が何を求め、どこまで従えば信用されるか、常に計算していた時期もある。しかし4年経った今では、それも食事や会議や移動と同じ予定の1つになっている。
「潜入上必要です」
「必要だから何でも受け入れるな」
納所の声が硬くなった。普段の穏やかさを知る玲だからこそ、その変化が分かる。玲は画面の向こうをしばらく見つめ、やがて口元へ薄い笑みを戻した。
「それを俺に教えたの、警察でしょう」
冗談のつもりだった。少なくとも玲は、深刻に言ったつもりなどなかった。潜入先に溶け込め。正体を守れ。必要なら生活も習慣も人格も作り替えろ。教官からも上司からも、形を変えながら何度も叩き込まれてきた原則だったからだ。
しかし納所は笑わなかった。
「私は、お前に壊れろと教えた覚えはない」
低い声が狭い部屋に落ちた。玲の指先が、顎へ触れたまま僅かに止まる。
「壊れてませんよ」
「自分の嫌なことが分からなくなってから言う台詞じゃない」
「分かりますって。嫌なものくらい」
「なら、嫌だと言ったことはあるのか」
玲は答えようとして、言葉が出なかった。凌臣に対して「眠い」「趣味が悪い」「面倒だ」と文句を言ったことならいくらでもある。だが、それと拒否は違う。行かない、触るな、やめろと、本当に選択肢として突きつけた記憶を探すと、頭の中に不自然な空白が生まれた。
納所はその沈黙を見逃さなかった。
「玲」
「……任務中ですから」
ようやく出た声は、先ほどまでより少し低かった。
「俺が断ったことで、4年積んだ信用が崩れる方が問題です。凌臣さんが俺を自分の支配下に置いてると思ってるから、見せる情報もある。寝室へ入れるから拾える話もある。別に、俺だけ特別なことしてるわけじゃないでしょう」
「比較の話をしているんじゃない」
「分かってます」
「分かっていない」
納所の返答は珍しく強かった。玲は眉を寄せたが、反論はしなかった。画面越しに見る男の顔には、長官として部下を管理する硬さではなく、もっと古く、もっと個人的な疲れが滲んでいる。玲が小学生だった頃、熱を出しても学校へ行こうとして布団へ戻された夜と似た顔だった。
その記憶が浮かんだことで、玲の方が先に視線を逸らした。
「本当に平気なんですよ」
言い訳のように聞こえたのが、自分でも少し癪だった。
「凌臣さんが何するかも大体分かってるし、今さら怖くもない。必要なら受ける。それだけです」
納所は長く黙った。回線の微かな電子音だけが残る。玲は白紙のメモ帳へ指先で意味のない線を引きかけ、途中でやめた。
「必要かどうかを決めるのは、任務だけじゃない」
納所が静かに言った。
「お前自身も決めていい」
玲は顔を上げた。何を当たり前のことを、と返しかける。しかし、その当たり前を自分が実際に使っているかと問われれば、すぐには答えられなかった。
「……長官が潜入捜査官にそれ言います?」
「今は長官として話していない」
「ずるいな、それ」
「お前が先に『俺でいい』と言ったんだろう」
玲は数秒黙ったあと、鼻から短く息を漏らした。笑ったというより、降参に近い反応だった。
「はいはい。気をつけます」
「その返事をする時のお前は、全く聞いていない」
「よくご存じで」
納所はため息をついた。それでもそれ以上追い詰めることはせず、最後に「必ず生きて帰れ」とだけ言った。いつも同じ言葉だった。玲はそれを聞くたび、少しだけ困ったような気分になる。生きて帰るために潜っているのか、任務を完遂するためなら帰れなくても構わないのか、自分の中で境界が曖昧になっていることを、納所にだけは見抜かれそうになるからだった。
「了解」
「公式なら『承知しました』だろう」
「もう公式じゃないんでしょう」
今度は納所も僅かに笑った。玲は手を伸ばして回線終了の準備をする。画面が暗転する直前、納所の表情だけがまた少し曇ったように見えた。
通信が切れ、部屋へ完全な静けさが戻った。玲は椅子へ深く凭れ、天井を見上げる。さっき投げかけられた「嫌だと言ったことはあるのか」という問いだけが、妙に耳へ残っていた。
考える必要はない。潜入に必要なら受け入れる。それは4年間変わっていないし、今さら変える理由もない。玲はそう結論づけて立ち上がったものの、腕時計へ暗号端末を戻す指が1度だけ止まった。
机の端には、凌臣から明朝6時に来るよう送られてきた短いメッセージが表示されたままの端末がある。玲はそれを見つめ、いつも通り「承知しました」と返信しようとした。だが指先は数秒間画面の上で動かず、その遅れを自分でも説明できなかった。
敵対組織の男が息を引き取ってから、倉庫の中は妙に静かになっていた。湾岸の外れに建つ古い物流倉庫は、潮と油と錆びた鉄の匂いが混じり、天井近くを走る蛍光灯が不規則に明滅している。床には尋問に使われた椅子が倒れ、その数メートル先には灰色のシートを掛けられた遺体が横たわっていた。血はもう広がっていないが、コンクリートへ染み込んだ暗い色だけが生々しく残っている。玲はその横でしゃがみ込み、回収された携帯電話、折れたSIMカード、財布、鍵束を種類ごとに透明袋へ分けていた。死んだ男は、燈城会と対立する新興組織《玖堂連合》の構成員だと名乗っていた。数日前から燈城会内部の運搬経路が外へ漏れ、倉庫2か所が警察より先に何者かへ荒らされている。凌臣はその情報源を探すため男を捕らえたが、尋問の途中で容体が急変し、そのまま死亡した。誰かが口封じ用の薬物を事前に使っていた可能性もあり、玲は死因については勝手に決めつけず、死体と所持品を別々の情報として扱っていた。「舌噛んだとかじゃねぇんだろうな」離れたところで凌臣が低く言った。煙草を吸う速度が普段より明らかに速く、灰皿代わりの空き缶には既に数本の吸い殻が詰まっている。男が吐いた内容の中には、燈城会内部に協力者がいるという話が含まれていた。名前までは出なかったが、凌臣が知らないところで自分の組織が動かされているという事実だけで、彼の苛立ちには十分だった。「可能性は低いです。口腔内の出血量と歯列を見る限り、自傷による致死ではありません」玲は袋へ封をしながら答えた。公の場に近い状況なので一人称は出していないが、周囲にいるのは凌臣と斑鳩井朔、それに後処理を担当する数人だけだ。玲の声はいつも通り静かだった。「薬か」「まだ分かりません。吐瀉物と血液は採ってあります。持病の可能性も切れませんし、拘束前に何か摂取していた可能性もあります」凌臣は舌打ちし、近くの折り畳み机を蹴った。金属脚が床を擦り、大きな音が倉庫内へ響く。若い組員が一瞬肩を強張らせたが、玲は顔も上げなかった。凌臣が怒っている時、物が飛ぶ程度は珍しくない。今の蹴り方なら人間へ向けてはいないと判断できるため、警戒を1段階上げる必要もなかった。玲は財布の中身を確認した。運転免許証は玖堂連合が用意した偽名らしく、顔写真だけは本人と一致している。現金は8万3000円、ホテルのカードキーが1
凌臣の機嫌が悪くなった理由を、玲は前夜からほぼ把握していた。燈城会と長く付き合いのある地方組織の幹部が本邸を訪れ、帰り際、廊下ですれ違った玲へ必要以上に近づいたのだ。相手は40代のαで、酒が入っていたとはいえ足取りは確かだったから、距離感を誤ったわけではない。玲の肩へ腕を回そうとし、避けられると面白がるように笑い、今度は青墨色の髪へ指を伸ばした。「相変わらず綺麗だな、澪。絹笠のところに置いとくのが勿体ねえ」玲は触れられる直前に半歩だけ身体をずらした。相手の手を折るほどの場面ではないと判断し、表情も変えずに「お酒が過ぎていますよ」と返そうとしたところで、背後から重い足音が近づいた。振り向く必要はない。焦がした檜と煙草の匂いで誰か分かった。「何してる」凌臣の声は低く、怒鳴ってはいなかった。それでも男の手が止まり、廊下にいた組員たちまで自然に口を閉じた。凌臣は玲の背後まで来ると、男が伸ばしていた手首を掴み、ゆっくり自分の方へ引いた。「いや、冗談ですよ。減るもんじゃないでしょう」「俺のもんに勝手に触んな」「まだ触ってませんよ、組長」玲が淡々と訂正すると、凌臣が横から睨んだ。「お前は黙ってろ」「事実を申し上げただけです」相手の幹部は場を収めるように笑ったものの、凌臣は最後まで笑わなかった。取引相手でなければその場で腕の1本くらい折っていたかもしれない。玲はそう判断し、問題を広げないために相手を玄関まで送り、そのまま残りの仕事へ戻った。ただし、凌臣の不機嫌だけは夜になっても消えなかった。そして翌朝、玲が寝室へ呼ばれた時、机上に置かれた小さな黒いケースを見た瞬間、昨夜から続いていた機嫌の悪さと今日の命令が繋がった。凌臣はベッド脇のソファへ深く座り、朝から煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていたが、部屋には煙と強いαの匂いが残っていた。玲は扉を閉め、ケースへ近づいて中を確認すると、凌臣を見た。「今日ですか」「ああ」中に入っているのは、遠隔操作で作動する小型の器具だった。過去にも似たものを使われたことがあるため、用途を聞く必要はない。問題は予定だ。「午前中、直系幹部を集めた資金会議ですよ」「知ってる」「午後は海外法人の責任者も来ます」「それも知ってる」玲は数秒、凌臣の顔を見た。男は悪びれもしなければ、説明する気もない。だから玲も遠慮なく言
賭場の時計が午前3時を回っても、卓を囲む者たちに眠気は見えなかった。照明は入場時から1度も明るさを変えず、窓のない地下区画では外が夜なのか朝なのかすら分からない。玲は革張りの椅子へ浅く腰掛け、卓上へ積まれた権利プレートと、新たに封を切られたカードを静かに眺めていた。数時間前まで300億円、さらに600億円相当を動かした勝負が続いていたにもかかわらず、空気はむしろ最初より研ぎ澄まされている。向かいのシュタイナーは、負けが込んでいる人間とは思えないほど機嫌が良かった。苛立ちを隠しているのではなく、玲という未知の相手を解析することそのものを楽しんでいるらしい。さきほどから勝負よりも玲の手元を見る時間が長く、視線は右手の指先、カードの持ち方、チップ代わりの権利証へ触れる順序を追っている。玲は気づいていたが、わざわざ教える理由もないので、何も知らない顔で右手だけを使い続けた。「今度は君が配れ」シュタイナーがそう言って、専属ディーラーへ手を上げた。ディーラーは1歩下がり、封を切ったばかりのデッキを玲の前へ置く。玲はカードケースの封印番号と縁の加工を1度だけ確認し、右手でデッキを持ち上げた。「俺がですか」「嫌なら断ってもいい」「別に構いません。ただ、不正を疑われるのは面倒ですね」「この卓は全方位から撮っている。君が細工できるなら、それも見てみたい」玲は肩を軽く竦め、リフルシャッフルを始めた。左右の束をほぼ同じ枚数へ分け、親指の圧を均等に掛けて噛み合わせ、最後にカットする。カードは一定の音を立てて卓上へ滑り、誰の前にも同じ距離で止まった。凌臣は玲の横で煙草を咥えたまま、その手元よりもシュタイナーの顔を見ている。最初の3ゲーム、玲は意図的に右手しか使わなかった。カードを配る時も、自分の手札を確認する時も、権利プレートを動かす時も右側で統一する。シュタイナーの視線が自然とそこへ寄り、カードを見るより玲の親指と人差し指の間を追う時間が増えていく。どちらが利き手なのか、強い札を持った時に指へ何か出るのか、探していることは明白だった。4ゲーム目、玲は何の前触れもなくデッキを左手へ持ち替えた。右手を卓の端へ置き、左だけで同じようにシャッフルし、そのままカードを配る。速度も精度も変わらず、配札位置の誤差すらほとんどない。シュタイナーの眉が僅かに動いた。「左利きなのか」「
賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。「趣味が悪いですね」隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。「賭場で善趣味求めんな」「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」「お前がそれ言うか?」「俺はまだ何も賭けてませんよ」周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。「新しい倉庫使用料は18%上げる」シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草
廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。「澪」低い声が廊下を渡った。「はい、組長」玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。「来い」「承知しました」玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。扉が開く。ま
男が帽子を脱いだ瞬間、玲はその裏地へ1度だけ目をやった。燈城会本邸の応接間には、午後の薄い光が障子越しに差し込み、黒檀の卓へ淡い影を落としている。向かいに座った男は、自らを欧州系慈善財団《アルベリオ財団》の日本代理人、クラウス・ベルンハルトと名乗った。年齢は50代半ばほど、濃紺のスーツに絹のネクタイ、腕には古いパテック・フィリップらしき時計を巻いている。髪は銀色を丁寧に撫でつけ、物腰も穏やかで、少なくとも表面だけを見れば長く上流階級に身を置いてきた人物に見えた。凌臣は男の経歴を質問しなかった。既に下調べはしているはずなのに、あえて確かめることもせず、煙草を指に挟んだまま相手の話を聞いている。その右後ろに立つ玲にも、何も指示を出さない。ただそこに置いているだけだった。それがむしろ玲には分かりやすい。見ろ、ということだ。玲はこの役目を説明されたことがない。最初の頃こそ「何か分かったら言え」と命じられたが、今では凌臣が会談相手を玲の視界へ入れるだけで十分になっていた。相手がどの手で名刺を出すか、椅子へ座る時にどちらの脚を庇うか、身につけた品が本人の経歴と矛盾しないかを、玲は会話と同時に拾っていく。凌臣も途中で横顔を確認することはあっても、会談の最中に答えを求めない。玲が本当に危険を察した時だけ先に動くことを、4年の間に覚えていた。男は日本国内での医療支援事業を拡大するため、燈城会傘下の物流網を使いたいのだと説明した。財団は3代にわたり欧州の資産家一族が運営し、戦後から慈善事業へ莫大な資金を投じてきたという。口調には無駄がなく、日本語にも不自然な訛りがない。資料も整っており、財団の設立年、寄付実績、理事名簿、海外拠点の一覧まで用意されていた。「私の家は、代々資産の運用と慈善活動を両立してきました。祖父の代から、日本との縁も深いのです」男はそう言って微笑み、卓上の紅茶へ手を伸ばした。その動きで袖口が数センチ上がり、時計の文字盤がよく見える。玲は視線を止めたのは1秒にも満たない。それでも、針の形、インデックスの焼け、ケースの厚み、ラグの磨耗、ブレスレットの接続部分まで十分だった。話の途中で、男は暑いと言って帽子を脱いだ。濃い灰色のフェルトハットで、内側にはロンドンの老舗帽子店《ハロウェイ&クレイン》の金箔ロゴが入っている。卓の端へ置く際、裏地が僅かにめくれ、汗止め